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イスタンブル

トルコ最大の都市で、トルコの経済、文化、歴史の中心地であるイスタンブルの紹介。イスタンブルの呼称、歴史、地理、都市景観などを簡単に説明しています。

   

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イスタンブルの呼称

古代のビュザンティオン(ビザンティオン)、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と同じ街である[20]。最初に知られている都市の名称はビザンティオン(ギリシア語Byzántion)またはビザンティウム(ラテン語Byzantium)でこの名称は紀元前660年頃に植民都市を創建したビザス(英語版)の名が元になっている[注釈 2][26]。コンスタンティヌス1世の後、新しいローマ帝国の東の首都を330年に創建し都市は「コンスタンティヌスの都市」を意味するコンスタンティノポリス Constantinopolis(コンスタンティノープル Constantinople)と名付けられ、広く知られる名称となった。ギリシア語では現在、Κωνσταντινούπολη 「コンスタンディヌーポリ」と呼ばれている。ラテン語由来の名であるコンスタンティノポリスに基くが、綴りに若干の変化があり、読みも現代ギリシャ語のものとなっている。コンスタンティヌスは新ローマを意味する Nea Roma の名称を広めようとしたが、これは広く使われることはなかった[27]。 コンスタンティノープルの名称は西洋ではトルコ共和国が建国されるまで最も広く使われた名称で、オスマン語ではコンスタンティニイェ Kostantiniyye (قسطنطينيه) はオスマン支配期に主に使われた名称である。それにも関わらずオスマン時代の都市を言い表す時、コンスタンティノープル Constantinople を使うことは今では歴史的には間違っていなくても政治的には正しくないとトルコ人により見なされている[28]。19世紀には都市の名称は外国人やトルコ人のいずれかによりいくつかのものが使われていた。ヨーロッパ人はコンスタンティノープルを市内全てを言い表すのに使っていたが、スタンブール Stamboul の名はトルコ人により使われており、金角湾とマルマラ海の間の城壁で囲まれた半島を言い表していた[28]。ペラ Pera(ギリシャ語では横切ってなどの意味)は金角湾とボスポラス海峡の間を言い表すのに使われていたがトルコ人はベイオール(英語版)を使っており今日でも使われている[29]。 イスラムの街やイスラムで満たされたを意味するイスラムボル Islambol は時折、イスタンブルを表す口語として使われオスマンが硬貨の一部にも刻印されているが[30]、これが現代の名称であるイスタンブルの前の名称であると信じることは誤りでイスラムボルの以前から存在しオスマンやムスリムにより都市が攻略される以前から存在していた[26]。 イスタンブル İstanbul(トルコ語発音: [isˈtanbuɫ] 口語では [ɯsˈtambuɫ])の語源は一説に中世ギリシャ語(英語版)の表現である "εἰς τὴν Πόλιν"(発音 [is tin ˈpolin])からで「都市で」や「都市に」を意味する[9]。これは当時、イスタンブル周辺部では唯一の大都市の地位を反映し、現代の人々が近くの都市の中心を「都心」"the City"と称するのと同じである。他のものではコンスタンティノープル Constantinople から進化し第一音節と第三音節が省略されたと言う見方もある[26]。 現代のトルコ語ではイスタンブルの表記は İstanbul でドットが付いたİが使われ、トルコ語のアルファベット(英語版)ではドットの有無が区別される。また英語では第一音節の (Is) に強勢が置かれるが、トルコ語では第二音節の (tan) に置かれる[31]。 イスタンブル İstanbul は単独の都市の名称として1930年に公式に採用された[32][33]。イスタンブル出身者は İstanbullu(複数では İstanbullular)だが英語ではイスタンブライト Istanbulite が使われている[34]。

◯リゴス
ガイウス・プリニウス・セクンドゥスによれば、ビザンティオンの最初の名称はリゴス Lygos であったとされる[35]。これはおそらく、半島近くの後に都市となる場所に位置したトラキア人の集落の名称かもしれない。

◯ビザンティオン
ビザンティオンByzantion (Βυζάντιον)、ラテン語化された名称ではビザンティウムByzantiumは紀元前667年にメガラからの入植者により創建された。名称自体はトラキア人かイリュリア人に由来すると考えられ、ギリシャ人の入植よりも前に遡る[36]。おそらく、トラキア人かイリュリア人の個人名であったビュザス(英語版)Byzasから来ており[37]:352ff、古代ギリシャの伝説ではメガラの入植者のリーダーで都市の名称の由来で創建者である伝説上の王を示している。ずっと後にはビザンティオン Byzantium の名称は、西洋ではその首都であった東ローマ帝国を言い表す名称として一般化した。この使い方を取り入れたのはドイツ人の歴史家ヒエロニュムス・ウルフ(英語版)で帝国が消滅した1世紀後のことである。帝国が存在した期間、ビザンティオンの使われ方は帝国そのものよりも街自体に限られていた。

◯アウグスタ・アントニーナ
アウグスタ・アントニーナAugusta Antoninaの名称は3世紀の短期間、街の名称として使われていた。この名称はローマ皇帝セプティミウス・セウェルス (193-211) により、息子(次代皇帝)のマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサル(通称カラカラ)に因んで命名されている[38]。

◯新ローマ
コンスタンティヌス1世は330年5月11日に新しいローマ帝国の東の首都を創建する前に、ローマを部分的に手本とし街を根本的に建て直すとてつもないスケールの大きな建設計画を着手した。この期間の名称には新や第二のローマを意味する ἡ Νέα, δευτέρα Ῥώμη[39]やローマを愛するAlma Roma Ἄλμα Ῥώμα, Βυζαντιάς Ῥώμη, ἑῴα Ῥώμη、東のローマ、ローマ・コンスタンティノポリターナなどがあった[37]:354。 新ローマの用法はギリシャ人の作家により使われた時には元のローマとのライバル関係を強調する特に東西教会の分裂の文脈に向いて行った。新ローマは今でも公式にコンスタンディヌーポリ総主教庁の肩書きの一部である[40]。

◯コンスタンティノープル
コンスタンティノープルConstantinople(コンスタンティヌスの都市)の名称はコンスタンティヌス1世の名誉からすぐにより広く知られるようになった。ギリシャ語の語形ではΚωνσταντινούπολις、ラテン語の語形ではConstantinopolisであった。最初に公式に使われたのはテオドシウス2世 (408-450) 統治下であったことが実証されている[38]。主要な公式名称としてビザンティン時代を通して残り、20世紀初期まで西洋では一般的な名称として使われていた。コスタンティニエKostantiniyyeの異なった形も含めオスマン帝国でもトルコ共和国の出現まで使われていた[41]。

◯他のビザンティンの名称
コンスタンティノープルConstantinopleの他にもビザンティンは幅広い名誉ある名称で呼ばれ、「都市の女王」(Βασιλὶς τῶν πόλεων) と呼ばれることもあった。しかし、一般的な話し言葉では最も広く使われる言い方は単に都市や都会を意味するポリスἡ Πόλις(現代のギリシャ語ではη Πόλη)である。この使われ方は今日でも口語のギリシャ語やアルメニア語(Պոլիս、西アルメニア方言(英語版)でボリス)の語法で後のトルコ名であるイスタンブルの元の一つでもある。

◯イスタンブル・コスタンティニエ
現代のトルコ語の名称はイスタンブルİstanbul(発音 [isˈtanbuɫ])であるが、これは10世紀以来のものでトルコの典拠によれば表現の幅があるが最初にアルメニア語やアラビア語で実証されている。これはギリシャ語の語形 "εις την Πόλιν" または "στην Πόλη" [istimbolin]「街へ」、「街で」[42]、"εἰς τὴν Πόλιν", "(eis) stin poli"(エス・テン・ポリン「都市に、町へ」)から取られ[9]、それ故これを基本にギリシャ語の用法では単に「都市」や「街」と呼んでいる。冠詞の一部分や他の接辞のギリシャ語の地名への結合はオスマン期以前では一般的なもので、ナヴァリノの代わりにアヴァリノ[43]、サティネスの代わりアティネスなどがある[44]。 似たような例には現代のトルコの地名でギリシャ語由来のものにはイズミットなどがあり、初期にはイズニクミット İznikmit でニコメディアから、イズニクはギリシャのニカエアNicaea、サムスン (s'Amison = "se + Amisos")、İstanköyはギリシャの島コス島などがある。語頭のiの起こりはこれらの名称の古いギリシャ語の語形の一部を is- と一緒に反映しているか、部分的に第二の音挿入により、トルコ語の音素配列構造を成している。İstanbulは1453年の征服前でさえ普通の話し言葉では一般的な名称であったが、オスマンの当局はコスタンティニエKostantiniyyeなど他の名称の公式の使用を特定の状況で好んでいた。故にKostantiniyyeは硬貨の鋳造に17世紀後半使われ、19世紀に再び使われている。 コンスタンティニエKostantiniyye(アラビア語: القسطنطينية‎ al-Qusṭanṭiniyah クスタンティニーヤ、オスマン語: قسطنطينيه Kostantiniyye コンスタンティニエ)の名称はイスラム世界で知られるようになった名称である。トルコ人に先立ってコンスタンティノポリスに接触したイスラム教徒たちの書いた史料では、9世紀にはこの街の名称であった。これは、アラビア語のコンスタンティノープル Constantinople の語形の翻訳借用でギリシャ語要素の-polisの代わりにアラビア語で「-の場所」を意味する語を最後に当てている。オスマンにより攻略された1453年以降、オスマントルコでは一番使われた公式名称で[45]、帝国が崩壊する1923年までのほとんどの期間使われていた。しかしながら、いくつかの時期にオスマンの権力者は他の名称を好んだ。オスマンの役所や裁判所ではKostantiniyyeをbe-Makam-ı Darü's-Saltanat-ı Kostantiniyyetü'l-Mahrusâtü'l-Mahmiyyeのような正式な文書で元の場所を表現する複雑なやり方の一部として使っていた[46]。19世紀、トルコの本の印刷では外国でコンスタンティノープルを使うのとは対照的に使われていたが、同時期にイスタンブルは公用語の一部としてオスマンの軍隊の高官 (İstanbul ağası) や都市の身分の高い行政官 (İstanbul efendisi) の肩書きの一部に使われていた[47]。 イスタンブルİstanbulや同じ名称の他のいくつかの異なった表現の名称も幅広くオスマンの文学や詩で使われた[38]。 1923年のトルコ共和国の建国後はイスタンブル以外の別の名称はトルコ語では使われなくなり、1930年3月28日のトルコの郵便法ではトルコ当局は外国人に公式にこれまでの伝統的なトルコ語以外での名称(コンスタンティノープルやツァーリグラードなど)で街を言い表すの止める他、自分たちの言語でもイスタンブルを唯一の都市の名称として取り入れるよう求めた[48]。手紙や小包をイスタンブル"Istanbul"ではなくコンスタンティノープル"Constantinople" で送るとトルコの郵便当局により配達されることはなく、このことは世界的に新しい名称の施策が広まることに貢献した。

◯スタンボウル
スタンボウルStamboulやスタンブルStambulはイスタンブルİstanbulの語形の変わった種類で、イスタンブルのようにそれ自体の語形の頭に i- は無く、中世初期には最初に10世紀のアラビア語の典拠に実証され[49]、アルメニア語では12世紀にはそうであった。いくつかの初期の典拠にはギリシャ語のPoli(n)を元に同様なBulinの短い表現も単独で前述の文が無く実証されている[50]。この表現は現代のアルメニア語でも生きている。 スタンボウルStamboulは西洋の言葉でイスタンブルと同様に1930年代の新しいトルコの語形に置き換わるまで使われていた。19世紀から20世紀初期、西ヨーロッパやアメリカの典拠では良くコンスタンティノープルConstantinopleは大都市全体を言い表すのに使われていたが、スタンボウル Stamboul は中心部の歴史的な半島部分を言い表すのに用いられ、ビザンティン時代の城壁の内側 (Theodosian) を指していた[51][52]。

◯イスラームボル
イスラームボルIslambol(多くのイスラム)やイスラムブルIslambul(イスラムの発見)はイスタンブルIstanbulへオスマンが1453年に攻略し新しいイスラムのオスマン帝国の首都しての役割を表現するため作られた民間語源の適応であった。イスラーム・ブール(「イスラムの地」という意味)を語源に想定する説もある[53]。最初に実証されたのは攻略直後で、現代の一部の作家たちはメフメト2世自身が付けたものとしている[38]。いくつかの17世紀のオスマンの典拠では、最も目立つものでエヴリヤ・チェレビが、当時の一般的なトルコでの名称として表現している。17世紀から18世紀、これは公式に使われていた。最初に使われた語は "Islambol" でアフメト3世の時代の1703年、貨幣の鋳造に使われた。

◯他のオスマンでの名称
オスマンと同時代の外国の人々は特に外交書簡でオスマン帝国の政府を特定の敬語で表現し、以下のようなものが含まれていた。

・Dersaadet(در سعادت『歓喜の門』)
・Derâliye(در عاليه『崇高な戸』)Derはペルシャ語で戸に当たる語。
・Bâb-ı Âlî(باب العالی『荘厳な朝廷』)Babはアラビア語で戸に当たる語。
・Pâyitaht(پایتخت『王座の中心』)ペルシャ語で首都。
・Asitane(آستانه)ペルシャ語からでスルタンの宮居又はオスマン帝国の中心の意味。(アラビア語: الأستانة)Āstāne-ye Sa‘ādat/Asitane-i Saadet(「幸福の宮居」)

歓喜の門、崇高な戸、荘厳な朝廷は文字通りオスマンのスルタン宮殿であったトプカプ宮殿でそこに位置した朝廷、それ故イギリスのホワイトホールや日本の霞ヶ関のようなオスマン帝国中枢を表す換喩であった。 ビザンティン帝国近隣の多くの人々は「大都市」や「皇帝の都市」、「ローマの首都」と言った概念の表現を使っていた。10世紀から12世紀の間、コンスタンティノープルは世界ではバグダードと並ぶ2つの大都市のうちの1つであった。

◯古ノルド語
中世のヴァイキングは東ヨーロッパでの拡大を通してヴァリャーグなどでビザンティン帝国との接点があり、古ノルド語ではミクラガルズMiklagarðr(mikillは大きなや偉大な、garðrは街)後の ミクラガードMiklagardを使っていた。今日でもこの語はアイスランド語のミクリガルドゥールMikligarðurやフェロー語のミクラガルドゥールMiklagarðurの語に残っている。


◯スラヴ諸語
スラヴ語派 では皇帝の都を意味するツァリグラドTsarigrad・Carigradの名称で呼ばれ、スラヴ語派の単語tsarはカエサルや君主(王)とgrad(都市)から来ている。キリル文字ではЦарьградで、これはおそらくギリシャ語の皇帝の街を意味するΒασιλέως Πόλις (Vasileos Polis) などからの翻訳借用である。この言い方は今でも時折、ブルガリア語で使われ一方でセルビア・クロアチア語やロシア語、マケドニア語では懐古的である。セルビア・クロアチア語ではビザンティンやオスマン帝国の歴史的な首都を言う場合は今でも使われている。スロベニア語ではCarigradが現代の都市の別の名称で使われている。チェコ語など西スラヴ語群ではツァーリフラッドCařihradが19世紀まで使われていたが今では稀である。また、スラヴ語派からルーマニア語にツァリグラードŢarigradで借用されたが、コンスタンティノープルの方がはるかに広く使われた。

◯ペルシャ語・ウルドゥー語・アラビア語
クスタンティニーヤKustantiniyyahに並んで、ペルシャ語やウルドゥー語、アラビア語など以外にも他のイスラム世界の言語での呼称はCesar(皇帝)を元にしたものが使われ、ペルシャ語やウルドゥー語ではKayser-i Zeminやアラビア語では民族名のRum(ローマ人)が、「ローマ人の大きな都市」Rūmiyyat al-kubra、「ローマ人の王座」Takht-e Rumがペルシャ語やウルドゥー語では使われたりする[50]。

◯ヘブライ語
ヘブライ語では時折、クシュタンディナ (קושטנדינה) やクシュタンディナ・ラバティ (קושטנדינה רבתי) と呼ばれ、文字通り大きなクシュタンディナでまたは略してクシュタקושטאとも呼ばれ、コンスタンティニエが変化したものである。この使われ方は20世紀初期までユダヤ人の間で一般的であったが現代のイスラエルではこの使われ方はほとんど見られず、ヘブライ語でもトルコ語のイスタンブル (איסטנבול) が転写されている。

参照元:Wikipedia「イスタンブル

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