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イスタンブル

トルコ最大の都市で、トルコの経済、文化、歴史の中心地であるイスタンブルの紹介。イスタンブルの呼称、歴史、地理、都市景観などを簡単に説明しています。

   

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イスタンブルの都市景観

ファティ(英語版)地区はオスマンに征服されるまでガラタのジェノヴァ共和国の要塞がある街全体と一致している。ジェノヴァの要塞は19世紀には街の北側へ市街地を拡大するため大部分が取り壊され、唯一ガラタ塔だけが残っている[123]。ガラタは現在の行政区ではベイオール(英語版)地区に含まれ、タクスィム広場周辺部はイスタンブルの商業や娯楽の中心地となっている[124]。 ドルマバフチェ宮殿はオスマン期の統治の中心で、ベイオール北のベシクタシュ地区にある。そこを越えた場所にあるイニョニュ・スタジアムはトルコでは最古のスポーツクラブであるベシクタシュJKが本拠地としている[125]。 以前は村であったオルタキョイ(英語版)はベシクタシュ地区内にあり、オルタキョイモスク(英語版)の名称にも含まれボスポラス海峡に沿った第1ボスポラス橋近くに位置する。ボスポラス海峡に岸に沿って並んだ北側のヤリィ(英語版)は豪華なシャレー(英語版)の邸宅は19世紀に貴族やエリート階級の夏の離宮として建てられた[126]。さらに内陸や市内の環状道路の外側にあるレヴェント(英語版)やマスラク(英語版)はイスタンブルの重要な経済の中心である[127]。 オスマン期、ユスキュダルやカドゥキョイはイスタンブルの郊外で、駐屯地や海辺の別荘、庭園がある静かな場所であったが20世紀の後半になるとアジア側も急速な都市化を経験し、市内の他の住宅地区と比較して後に開発されたこの地区はより良いインフラと都市計画に至っている[8]。ボスポラス海峡のアジア側の多くは経済や商業的な中心のヨーロッパ側の郊外として機能し、市内の人口の3分の1を占めるが雇用は4分の1を占めるだけである[8]。20世紀のイスタンブルの急速な成長の結果、市内の相当な部分でゲジェコンドゥ(一夜建て)と呼ばれる不法建築物が構成されている[128]。現在では徐々にいくつかのゲジェコンドゥが占める地区は取り壊され、現代的な大規模住宅群に置き換わって来ている[129]。 イスタンブルには他の大都市のように主要な都市公園はないが、多くの緑地が広がっている。ギュルハーネ公園(英語版)やユルドゥズ公園(英語版)はもともとトプカプ宮殿やユルドゥズ宮殿などイスタンブルの2つの宮殿の土地に含まれていたが、トルコ共和国になり初期の10年間で公共の公園に利用されるようになった[130]。 フェテヒ・パシャ・コルス(英語版)はアナトリアのボスポラス橋に隣接したユルドゥズ宮殿反対側の丘の斜面に位置している。ヨーロッパ側に沿ったファティ・スルタン・メフメト橋に近いエミルギャン公園(英語版)はもともとはオスマンの指導者の私有地に属しており、47haの公園内には多様な植物があり、2005年以来毎年チューリップ祭が催されている[131]。イスタンブルっ子 (Istanbulites) に夏の間、ポピュラーな場所にはベオグラードの森(英語版)が含まれ市の北縁の 5,500ヘクタール (14,000エーカー) を占めている。森林はもともとビザンティンやオスマンの時代に市内に水を供給するための貯水池として使われ今でも残っている[132][133]。 ◯建築物 イスタンブルは主としてビザンティンやオスマンの建築物で知られているが、しかしその建物はそれ以前に街を支配した様々な人々や帝国を反映している。例えば、ジェノヴァやローマの建築はイスタンブルではオスマンに相対する物として見ることが出来る。古代のギリシア建築は何も残らなかったが、ローマ建築はより耐久性があることが証明されている。コンスタンティノープル競馬場(ヒッポドローム)からのオベリスクは今でもスルタンアフメト広場で見られ、ヴァレンス水道橋の一部の区間は4世紀後半に建てられたが比較的手付かずでファティ地区の西縁に残っている[134]。 コンスタンティヌスの円柱(英語版)は330年に新しいローマ帝国の首都を記すため建てられたが、ヒッポドロームからそう遠くない場所に今でも建っている[134]。 初期のビザンティン建築は古典様式のローマのドームやアーチをモデルとし受け継いでいたが、聖セルギウス・バッカス教会(英語版)(リトルアヤソフィア)ではこれらの要素に改良がなされた。イスタンブルで現存する最古のビザンティン建築は廃墟ではあるけれど後にイムラホルモスクに転換された454年に建てられたストゥディオス修道院(英語版)である[135]。1261年にコンスタンティノープルが奪回されるとビザンティン様式は今でも現存する最も重要なコーラ教会とパンマカリストス教会(英語版)に拡大している。それでも、イスタンブルで最も象徴的なビザンティン様式の建築物の頂点の一つはアヤソフィアで、一番上のドームは直径31mあり[136]、アヤソフィアはモスクに変わる前は1,000年以上にわたり世界最大の大聖堂で、現在では博物館になっている[67]。 イスタンブルに現存する最古のオスマン建築にはアナドル・ヒサル(英語版)やルメリ・ヒサルなどの城塞が含まれ、コンスタンティノープルの市街をオスマンが包囲する際の助けとなった[137]。4世紀の間にわたって、オスマンは高くそびえるモスクや華麗な宮殿を建築しいつまでも残るイスタンブルの印象的な街並を作って行った。最大の宮殿であるトプカプ宮殿は内部のバロック様式のハレムから新古典主義建築のエンダルン学校(英語版)(図書館)など多種多様な建築様式が含まれている[138]。オスマン帝国のモスク(英語版)にはスルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)やスレイマニエ・モスク、イェ二モスク(英語版)が含まれ、これら全ては16世紀から17世紀にオスマン帝国の隆盛期に建てられている。後の世紀、特にタンジマートの改革期にはオスマン様式の建築物はヨーロッパ様式のものに変わっている[139]。 イスティクラル通り(英語版)周辺の地区は壮麗なヨーロッパの大使館や新古典様式やネオルネッサンス建築、アール・ヌーヴォー建築の通りで満たされている。ベイオールの建築物は教会や店舗、劇場、公的な建物であるドルマバフチェ宮殿などが含まれる[140]。

参照元:Wikipedia「イスタンブル
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