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イスタンブル

トルコ最大の都市で、トルコの経済、文化、歴史の中心地であるイスタンブルの紹介。イスタンブルの呼称、歴史、地理、都市景観などを簡単に説明しています。

   

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イスタンブルの呼称

古代のビュザンティオン(ビザンティオン)、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と同じ街である[20]。最初に知られている都市の名称はビザンティオン(ギリシア語Byzántion)またはビザンティウム(ラテン語Byzantium)でこの名称は紀元前660年頃に植民都市を創建したビザス(英語版)の名が元になっている[注釈 2][26]。コンスタンティヌス1世の後、新しいローマ帝国の東の首都を330年に創建し都市は「コンスタンティヌスの都市」を意味するコンスタンティノポリス Constantinopolis(コンスタンティノープル Constantinople)と名付けられ、広く知られる名称となった。ギリシア語では現在、Κωνσταντινούπολη 「コンスタンディヌーポリ」と呼ばれている。ラテン語由来の名であるコンスタンティノポリスに基くが、綴りに若干の変化があり、読みも現代ギリシャ語のものとなっている。コンスタンティヌスは新ローマを意味する Nea Roma の名称を広めようとしたが、これは広く使われることはなかった[27]。 コンスタンティノープルの名称は西洋ではトルコ共和国が建国されるまで最も広く使われた名称で、オスマン語ではコンスタンティニイェ Kostantiniyye (قسطنطينيه) はオスマン支配期に主に使われた名称である。それにも関わらずオスマン時代の都市を言い表す時、コンスタンティノープル Constantinople を使うことは今では歴史的には間違っていなくても政治的には正しくないとトルコ人により見なされている[28]。19世紀には都市の名称は外国人やトルコ人のいずれかによりいくつかのものが使われていた。ヨーロッパ人はコンスタンティノープルを市内全てを言い表すのに使っていたが、スタンブール Stamboul の名はトルコ人により使われており、金角湾とマルマラ海の間の城壁で囲まれた半島を言い表していた[28]。ペラ Pera(ギリシャ語では横切ってなどの意味)は金角湾とボスポラス海峡の間を言い表すのに使われていたがトルコ人はベイオール(英語版)を使っており今日でも使われている[29]。 イスラムの街やイスラムで満たされたを意味するイスラムボル Islambol は時折、イスタンブルを表す口語として使われオスマンが硬貨の一部にも刻印されているが[30]、これが現代の名称であるイスタンブルの前の名称であると信じることは誤りでイスラムボルの以前から存在しオスマンやムスリムにより都市が攻略される以前から存在していた[26]。 イスタンブル İstanbul(トルコ語発音: [isˈtanbuɫ] 口語では [ɯsˈtambuɫ])の語源は一説に中世ギリシャ語(英語版)の表現である "εἰς τὴν Πόλιν"(発音 [is tin ˈpolin])からで「都市で」や「都市に」を意味する[9]。これは当時、イスタンブル周辺部では唯一の大都市の地位を反映し、現代の人々が近くの都市の中心を「都心」"the City"と称するのと同じである。他のものではコンスタンティノープル Constantinople から進化し第一音節と第三音節が省略されたと言う見方もある[26]。 現代のトルコ語ではイスタンブルの表記は İstanbul でドットが付いたİが使われ、トルコ語のアルファベット(英語版)ではドットの有無が区別される。また英語では第一音節の (Is) に強勢が置かれるが、トルコ語では第二音節の (tan) に置かれる[31]。 イスタンブル İstanbul は単独の都市の名称として1930年に公式に採用された[32][33]。イスタンブル出身者は İstanbullu(複数では İstanbullular)だが英語ではイスタンブライト Istanbulite が使われている[34]。

◯リゴス
ガイウス・プリニウス・セクンドゥスによれば、ビザンティオンの最初の名称はリゴス Lygos であったとされる[35]。これはおそらく、半島近くの後に都市となる場所に位置したトラキア人の集落の名称かもしれない。

◯ビザンティオン
ビザンティオンByzantion (Βυζάντιον)、ラテン語化された名称ではビザンティウムByzantiumは紀元前667年にメガラからの入植者により創建された。名称自体はトラキア人かイリュリア人に由来すると考えられ、ギリシャ人の入植よりも前に遡る[36]。おそらく、トラキア人かイリュリア人の個人名であったビュザス(英語版)Byzasから来ており[37]:352ff、古代ギリシャの伝説ではメガラの入植者のリーダーで都市の名称の由来で創建者である伝説上の王を示している。ずっと後にはビザンティオン Byzantium の名称は、西洋ではその首都であった東ローマ帝国を言い表す名称として一般化した。この使い方を取り入れたのはドイツ人の歴史家ヒエロニュムス・ウルフ(英語版)で帝国が消滅した1世紀後のことである。帝国が存在した期間、ビザンティオンの使われ方は帝国そのものよりも街自体に限られていた。

◯アウグスタ・アントニーナ
アウグスタ・アントニーナAugusta Antoninaの名称は3世紀の短期間、街の名称として使われていた。この名称はローマ皇帝セプティミウス・セウェルス (193-211) により、息子(次代皇帝)のマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサル(通称カラカラ)に因んで命名されている[38]。

◯新ローマ
コンスタンティヌス1世は330年5月11日に新しいローマ帝国の東の首都を創建する前に、ローマを部分的に手本とし街を根本的に建て直すとてつもないスケールの大きな建設計画を着手した。この期間の名称には新や第二のローマを意味する ἡ Νέα, δευτέρα Ῥώμη[39]やローマを愛するAlma Roma Ἄλμα Ῥώμα, Βυζαντιάς Ῥώμη, ἑῴα Ῥώμη、東のローマ、ローマ・コンスタンティノポリターナなどがあった[37]:354。 新ローマの用法はギリシャ人の作家により使われた時には元のローマとのライバル関係を強調する特に東西教会の分裂の文脈に向いて行った。新ローマは今でも公式にコンスタンディヌーポリ総主教庁の肩書きの一部である[40]。

◯コンスタンティノープル
コンスタンティノープルConstantinople(コンスタンティヌスの都市)の名称はコンスタンティヌス1世の名誉からすぐにより広く知られるようになった。ギリシャ語の語形ではΚωνσταντινούπολις、ラテン語の語形ではConstantinopolisであった。最初に公式に使われたのはテオドシウス2世 (408-450) 統治下であったことが実証されている[38]。主要な公式名称としてビザンティン時代を通して残り、20世紀初期まで西洋では一般的な名称として使われていた。コスタンティニエKostantiniyyeの異なった形も含めオスマン帝国でもトルコ共和国の出現まで使われていた[41]。

◯他のビザンティンの名称
コンスタンティノープルConstantinopleの他にもビザンティンは幅広い名誉ある名称で呼ばれ、「都市の女王」(Βασιλὶς τῶν πόλεων) と呼ばれることもあった。しかし、一般的な話し言葉では最も広く使われる言い方は単に都市や都会を意味するポリスἡ Πόλις(現代のギリシャ語ではη Πόλη)である。この使われ方は今日でも口語のギリシャ語やアルメニア語(Պոլիս、西アルメニア方言(英語版)でボリス)の語法で後のトルコ名であるイスタンブルの元の一つでもある。

◯イスタンブル・コスタンティニエ
現代のトルコ語の名称はイスタンブルİstanbul(発音 [isˈtanbuɫ])であるが、これは10世紀以来のものでトルコの典拠によれば表現の幅があるが最初にアルメニア語やアラビア語で実証されている。これはギリシャ語の語形 "εις την Πόλιν" または "στην Πόλη" [istimbolin]「街へ」、「街で」[42]、"εἰς τὴν Πόλιν", "(eis) stin poli"(エス・テン・ポリン「都市に、町へ」)から取られ[9]、それ故これを基本にギリシャ語の用法では単に「都市」や「街」と呼んでいる。冠詞の一部分や他の接辞のギリシャ語の地名への結合はオスマン期以前では一般的なもので、ナヴァリノの代わりにアヴァリノ[43]、サティネスの代わりアティネスなどがある[44]。 似たような例には現代のトルコの地名でギリシャ語由来のものにはイズミットなどがあり、初期にはイズニクミット İznikmit でニコメディアから、イズニクはギリシャのニカエアNicaea、サムスン (s'Amison = "se + Amisos")、İstanköyはギリシャの島コス島などがある。語頭のiの起こりはこれらの名称の古いギリシャ語の語形の一部を is- と一緒に反映しているか、部分的に第二の音挿入により、トルコ語の音素配列構造を成している。İstanbulは1453年の征服前でさえ普通の話し言葉では一般的な名称であったが、オスマンの当局はコスタンティニエKostantiniyyeなど他の名称の公式の使用を特定の状況で好んでいた。故にKostantiniyyeは硬貨の鋳造に17世紀後半使われ、19世紀に再び使われている。 コンスタンティニエKostantiniyye(アラビア語: القسطنطينية‎ al-Qusṭanṭiniyah クスタンティニーヤ、オスマン語: قسطنطينيه Kostantiniyye コンスタンティニエ)の名称はイスラム世界で知られるようになった名称である。トルコ人に先立ってコンスタンティノポリスに接触したイスラム教徒たちの書いた史料では、9世紀にはこの街の名称であった。これは、アラビア語のコンスタンティノープル Constantinople の語形の翻訳借用でギリシャ語要素の-polisの代わりにアラビア語で「-の場所」を意味する語を最後に当てている。オスマンにより攻略された1453年以降、オスマントルコでは一番使われた公式名称で[45]、帝国が崩壊する1923年までのほとんどの期間使われていた。しかしながら、いくつかの時期にオスマンの権力者は他の名称を好んだ。オスマンの役所や裁判所ではKostantiniyyeをbe-Makam-ı Darü's-Saltanat-ı Kostantiniyyetü'l-Mahrusâtü'l-Mahmiyyeのような正式な文書で元の場所を表現する複雑なやり方の一部として使っていた[46]。19世紀、トルコの本の印刷では外国でコンスタンティノープルを使うのとは対照的に使われていたが、同時期にイスタンブルは公用語の一部としてオスマンの軍隊の高官 (İstanbul ağası) や都市の身分の高い行政官 (İstanbul efendisi) の肩書きの一部に使われていた[47]。 イスタンブルİstanbulや同じ名称の他のいくつかの異なった表現の名称も幅広くオスマンの文学や詩で使われた[38]。 1923年のトルコ共和国の建国後はイスタンブル以外の別の名称はトルコ語では使われなくなり、1930年3月28日のトルコの郵便法ではトルコ当局は外国人に公式にこれまでの伝統的なトルコ語以外での名称(コンスタンティノープルやツァーリグラードなど)で街を言い表すの止める他、自分たちの言語でもイスタンブルを唯一の都市の名称として取り入れるよう求めた[48]。手紙や小包をイスタンブル"Istanbul"ではなくコンスタンティノープル"Constantinople" で送るとトルコの郵便当局により配達されることはなく、このことは世界的に新しい名称の施策が広まることに貢献した。

◯スタンボウル
スタンボウルStamboulやスタンブルStambulはイスタンブルİstanbulの語形の変わった種類で、イスタンブルのようにそれ自体の語形の頭に i- は無く、中世初期には最初に10世紀のアラビア語の典拠に実証され[49]、アルメニア語では12世紀にはそうであった。いくつかの初期の典拠にはギリシャ語のPoli(n)を元に同様なBulinの短い表現も単独で前述の文が無く実証されている[50]。この表現は現代のアルメニア語でも生きている。 スタンボウルStamboulは西洋の言葉でイスタンブルと同様に1930年代の新しいトルコの語形に置き換わるまで使われていた。19世紀から20世紀初期、西ヨーロッパやアメリカの典拠では良くコンスタンティノープルConstantinopleは大都市全体を言い表すのに使われていたが、スタンボウル Stamboul は中心部の歴史的な半島部分を言い表すのに用いられ、ビザンティン時代の城壁の内側 (Theodosian) を指していた[51][52]。

◯イスラームボル
イスラームボルIslambol(多くのイスラム)やイスラムブルIslambul(イスラムの発見)はイスタンブルIstanbulへオスマンが1453年に攻略し新しいイスラムのオスマン帝国の首都しての役割を表現するため作られた民間語源の適応であった。イスラーム・ブール(「イスラムの地」という意味)を語源に想定する説もある[53]。最初に実証されたのは攻略直後で、現代の一部の作家たちはメフメト2世自身が付けたものとしている[38]。いくつかの17世紀のオスマンの典拠では、最も目立つものでエヴリヤ・チェレビが、当時の一般的なトルコでの名称として表現している。17世紀から18世紀、これは公式に使われていた。最初に使われた語は "Islambol" でアフメト3世の時代の1703年、貨幣の鋳造に使われた。

◯他のオスマンでの名称
オスマンと同時代の外国の人々は特に外交書簡でオスマン帝国の政府を特定の敬語で表現し、以下のようなものが含まれていた。

・Dersaadet(در سعادت『歓喜の門』)
・Derâliye(در عاليه『崇高な戸』)Derはペルシャ語で戸に当たる語。
・Bâb-ı Âlî(باب العالی『荘厳な朝廷』)Babはアラビア語で戸に当たる語。
・Pâyitaht(پایتخت『王座の中心』)ペルシャ語で首都。
・Asitane(آستانه)ペルシャ語からでスルタンの宮居又はオスマン帝国の中心の意味。(アラビア語: الأستانة)Āstāne-ye Sa‘ādat/Asitane-i Saadet(「幸福の宮居」)

歓喜の門、崇高な戸、荘厳な朝廷は文字通りオスマンのスルタン宮殿であったトプカプ宮殿でそこに位置した朝廷、それ故イギリスのホワイトホールや日本の霞ヶ関のようなオスマン帝国中枢を表す換喩であった。 ビザンティン帝国近隣の多くの人々は「大都市」や「皇帝の都市」、「ローマの首都」と言った概念の表現を使っていた。10世紀から12世紀の間、コンスタンティノープルは世界ではバグダードと並ぶ2つの大都市のうちの1つであった。

◯古ノルド語
中世のヴァイキングは東ヨーロッパでの拡大を通してヴァリャーグなどでビザンティン帝国との接点があり、古ノルド語ではミクラガルズMiklagarðr(mikillは大きなや偉大な、garðrは街)後の ミクラガードMiklagardを使っていた。今日でもこの語はアイスランド語のミクリガルドゥールMikligarðurやフェロー語のミクラガルドゥールMiklagarðurの語に残っている。


◯スラヴ諸語
スラヴ語派 では皇帝の都を意味するツァリグラドTsarigrad・Carigradの名称で呼ばれ、スラヴ語派の単語tsarはカエサルや君主(王)とgrad(都市)から来ている。キリル文字ではЦарьградで、これはおそらくギリシャ語の皇帝の街を意味するΒασιλέως Πόλις (Vasileos Polis) などからの翻訳借用である。この言い方は今でも時折、ブルガリア語で使われ一方でセルビア・クロアチア語やロシア語、マケドニア語では懐古的である。セルビア・クロアチア語ではビザンティンやオスマン帝国の歴史的な首都を言う場合は今でも使われている。スロベニア語ではCarigradが現代の都市の別の名称で使われている。チェコ語など西スラヴ語群ではツァーリフラッドCařihradが19世紀まで使われていたが今では稀である。また、スラヴ語派からルーマニア語にツァリグラードŢarigradで借用されたが、コンスタンティノープルの方がはるかに広く使われた。

◯ペルシャ語・ウルドゥー語・アラビア語
クスタンティニーヤKustantiniyyahに並んで、ペルシャ語やウルドゥー語、アラビア語など以外にも他のイスラム世界の言語での呼称はCesar(皇帝)を元にしたものが使われ、ペルシャ語やウルドゥー語ではKayser-i Zeminやアラビア語では民族名のRum(ローマ人)が、「ローマ人の大きな都市」Rūmiyyat al-kubra、「ローマ人の王座」Takht-e Rumがペルシャ語やウルドゥー語では使われたりする[50]。

◯ヘブライ語
ヘブライ語では時折、クシュタンディナ (קושטנדינה) やクシュタンディナ・ラバティ (קושטנדינה רבתי) と呼ばれ、文字通り大きなクシュタンディナでまたは略してクシュタקושטאとも呼ばれ、コンスタンティニエが変化したものである。この使われ方は20世紀初期までユダヤ人の間で一般的であったが現代のイスラエルではこの使われ方はほとんど見られず、ヘブライ語でもトルコ語のイスタンブル (איסטנבול) が転写されている。

参照元:Wikipedia「イスタンブル

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イスタンブルの行政

2004年以来、イスタンブルはトルコでは2つある市域と県域が同一の範囲で広がる都市[141]の1つである[142]。イスタンブルはイスタンブル県の県都と見なされ、イスタンブル大都市自治体 (MMI) により統治され39の都市行政区に分けられている[注釈 1]。 現在の都市機構は19世紀のタンジマート期の改革に遡り、それ以前はカーディーと大宰相の後援の下、イマームにより都市を率いていた。フランスの都市をモデルに、宗教的な仕組みは市長とイスタンブル中のミレット制(英語版)の代表者で構成された議会に置き換わった。ベイオールは市内では最初の自らの首長と議会を有する地区であったが、議員はミレットの代表者の代わりに地区に長年住む住民であった。オスマン帝国憲法以後、法律が制定されこの仕組みは市全体に拡大され20のパリの行政区を模範としていたが、1908年まで全ては実行されておらずイスタンブルは9つの地区で構成された行政区として宣言された[143][144]。この仕組みは belediye(自治体)と名称を変えてトルコ共和国建国後も続いたが、1957年にこの自治体は解散した[97][145]。イスタンブルを含めトルコの人口集中地区に隣接した小さな集落は1980年代初期にそれぞれ主要都市に併合され、その結果大都市の自治体となった[146][147]。 イスタンブル大都市自治体の意思決定機関は、地区議会から選ばれた議員による市議会である。市議会は予算管理やインフラの維持、博物館や主要な文化センターの監督など市全体の問題を担当している[148]。市政府は「強力な市長と弱い議会」のアプローチの下で運営されるため、議会の指導者、市長は迅速な意思決定を行う権限を有しているがしばしば透明性は犠牲にされる[149]。市議会は大都市行政委員会により助言されるが、委員会もまた自らの意思決定を行う限られた権限を有する[150]。全ての委員会の代表者は市長や議会により任命される[150][151]。 一方、地区議会はそれぞれの地区内の廃棄物管理や建設計画に関して主に責任がある。それぞれの地区は独自の予算を有するが、市長には地区の意思決定を再検討する権利がある。区長を含むすべての地区議会の議員の5分の1はそれぞれの地区の代表として市議会の議員として選ばれる[148]。全ての地区議会と市長を含む市議会の議員は5年ごとの選挙により選出される[152]。 2004年以来、公正発展党のカディール・トプバシュ(英語版)がイスタンブル市長を務めている[153]。 イスタンブル大都市自治体とイスタンブル県は同等の管轄区域を持つが、いくつかの権限は県政府に残されている。イスタンブル大都市自治体に似て、イスタンブル県は政府から任命された知事[154]、民主的に選出された意思決定機関である地方議会と任命された行政委員会がある。自治体レベルで行政委員会が反映され、県行政委員会には、大臣や部門長が含まれ県議会に助言を行っている[151][155]。県行政の役割は学校や住宅、政府の建物、道路の建設や維持、芸術、文化、自然環境保全や推進に限定されている[156]。フセイン・アヴニ・ムトゥルHuseyin Avni Mutluは2010年5月以来、イスタンブル県の県知事である[157]。

参照元:Wikipedia「イスタンブル

イスタンブルの都市景観

ファティ(英語版)地区はオスマンに征服されるまでガラタのジェノヴァ共和国の要塞がある街全体と一致している。ジェノヴァの要塞は19世紀には街の北側へ市街地を拡大するため大部分が取り壊され、唯一ガラタ塔だけが残っている[123]。ガラタは現在の行政区ではベイオール(英語版)地区に含まれ、タクスィム広場周辺部はイスタンブルの商業や娯楽の中心地となっている[124]。 ドルマバフチェ宮殿はオスマン期の統治の中心で、ベイオール北のベシクタシュ地区にある。そこを越えた場所にあるイニョニュ・スタジアムはトルコでは最古のスポーツクラブであるベシクタシュJKが本拠地としている[125]。 以前は村であったオルタキョイ(英語版)はベシクタシュ地区内にあり、オルタキョイモスク(英語版)の名称にも含まれボスポラス海峡に沿った第1ボスポラス橋近くに位置する。ボスポラス海峡に岸に沿って並んだ北側のヤリィ(英語版)は豪華なシャレー(英語版)の邸宅は19世紀に貴族やエリート階級の夏の離宮として建てられた[126]。さらに内陸や市内の環状道路の外側にあるレヴェント(英語版)やマスラク(英語版)はイスタンブルの重要な経済の中心である[127]。 オスマン期、ユスキュダルやカドゥキョイはイスタンブルの郊外で、駐屯地や海辺の別荘、庭園がある静かな場所であったが20世紀の後半になるとアジア側も急速な都市化を経験し、市内の他の住宅地区と比較して後に開発されたこの地区はより良いインフラと都市計画に至っている[8]。ボスポラス海峡のアジア側の多くは経済や商業的な中心のヨーロッパ側の郊外として機能し、市内の人口の3分の1を占めるが雇用は4分の1を占めるだけである[8]。20世紀のイスタンブルの急速な成長の結果、市内の相当な部分でゲジェコンドゥ(一夜建て)と呼ばれる不法建築物が構成されている[128]。現在では徐々にいくつかのゲジェコンドゥが占める地区は取り壊され、現代的な大規模住宅群に置き換わって来ている[129]。 イスタンブルには他の大都市のように主要な都市公園はないが、多くの緑地が広がっている。ギュルハーネ公園(英語版)やユルドゥズ公園(英語版)はもともとトプカプ宮殿やユルドゥズ宮殿などイスタンブルの2つの宮殿の土地に含まれていたが、トルコ共和国になり初期の10年間で公共の公園に利用されるようになった[130]。 フェテヒ・パシャ・コルス(英語版)はアナトリアのボスポラス橋に隣接したユルドゥズ宮殿反対側の丘の斜面に位置している。ヨーロッパ側に沿ったファティ・スルタン・メフメト橋に近いエミルギャン公園(英語版)はもともとはオスマンの指導者の私有地に属しており、47haの公園内には多様な植物があり、2005年以来毎年チューリップ祭が催されている[131]。イスタンブルっ子 (Istanbulites) に夏の間、ポピュラーな場所にはベオグラードの森(英語版)が含まれ市の北縁の 5,500ヘクタール (14,000エーカー) を占めている。森林はもともとビザンティンやオスマンの時代に市内に水を供給するための貯水池として使われ今でも残っている[132][133]。 ◯建築物 イスタンブルは主としてビザンティンやオスマンの建築物で知られているが、しかしその建物はそれ以前に街を支配した様々な人々や帝国を反映している。例えば、ジェノヴァやローマの建築はイスタンブルではオスマンに相対する物として見ることが出来る。古代のギリシア建築は何も残らなかったが、ローマ建築はより耐久性があることが証明されている。コンスタンティノープル競馬場(ヒッポドローム)からのオベリスクは今でもスルタンアフメト広場で見られ、ヴァレンス水道橋の一部の区間は4世紀後半に建てられたが比較的手付かずでファティ地区の西縁に残っている[134]。 コンスタンティヌスの円柱(英語版)は330年に新しいローマ帝国の首都を記すため建てられたが、ヒッポドロームからそう遠くない場所に今でも建っている[134]。 初期のビザンティン建築は古典様式のローマのドームやアーチをモデルとし受け継いでいたが、聖セルギウス・バッカス教会(英語版)(リトルアヤソフィア)ではこれらの要素に改良がなされた。イスタンブルで現存する最古のビザンティン建築は廃墟ではあるけれど後にイムラホルモスクに転換された454年に建てられたストゥディオス修道院(英語版)である[135]。1261年にコンスタンティノープルが奪回されるとビザンティン様式は今でも現存する最も重要なコーラ教会とパンマカリストス教会(英語版)に拡大している。それでも、イスタンブルで最も象徴的なビザンティン様式の建築物の頂点の一つはアヤソフィアで、一番上のドームは直径31mあり[136]、アヤソフィアはモスクに変わる前は1,000年以上にわたり世界最大の大聖堂で、現在では博物館になっている[67]。 イスタンブルに現存する最古のオスマン建築にはアナドル・ヒサル(英語版)やルメリ・ヒサルなどの城塞が含まれ、コンスタンティノープルの市街をオスマンが包囲する際の助けとなった[137]。4世紀の間にわたって、オスマンは高くそびえるモスクや華麗な宮殿を建築しいつまでも残るイスタンブルの印象的な街並を作って行った。最大の宮殿であるトプカプ宮殿は内部のバロック様式のハレムから新古典主義建築のエンダルン学校(英語版)(図書館)など多種多様な建築様式が含まれている[138]。オスマン帝国のモスク(英語版)にはスルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)やスレイマニエ・モスク、イェ二モスク(英語版)が含まれ、これら全ては16世紀から17世紀にオスマン帝国の隆盛期に建てられている。後の世紀、特にタンジマートの改革期にはオスマン様式の建築物はヨーロッパ様式のものに変わっている[139]。 イスティクラル通り(英語版)周辺の地区は壮麗なヨーロッパの大使館や新古典様式やネオルネッサンス建築、アール・ヌーヴォー建築の通りで満たされている。ベイオールの建築物は教会や店舗、劇場、公的な建物であるドルマバフチェ宮殿などが含まれる[140]。

参照元:Wikipedia「イスタンブル

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