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イスタンブル

トルコ最大の都市で、トルコの経済、文化、歴史の中心地であるイスタンブルの紹介。イスタンブルの呼称、歴史、地理、都市景観などを簡単に説明しています。

   

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イスタンブルの気候

イスタンブルの気候は改訂されたケッペンの気候区分によれば地中海性気候 (Csa) と温暖湿潤気候 (Cfa) の境界にあたり、夏の2ヶ月間だけ40mm以下の降水量のため亜熱帯か地中海性の気候か単独で分類されるのが妨げられている[105][106]。しかしながら、広大な市域や多様な地形、海辺の場所などイスタンブルでは微気候(英語版)が見られる。市街の北部は海洋性気候で表されるが (Cfb)、これは黒海からの湿気や比較的高い植生の密度による。市街南部の人口密集地の気候は暖かく、湿度の影響を受けにくい[107]。 実際、イスタンブルの気候の顕著な特徴の一つに持続的な高湿度があり、湿度は80%に達しほとんどは朝である[108]。これらの気象条件により霧はごくありふれたもので、市の北側や中心部から離れた場所ではより多い[107]。特に深い霧はボスポラス海峡を含め地域の交通を混乱させ、秋や冬の月に継続的に起こり湿度が高いまま午後まで残る[109][110][111]。高湿度の条件と霧は夏の月の間は昼までに解消されるが、長引いた湿度は夏の高い気温に不快な悪影響を与える[108][112]。夏の数ヶ月間の最高気温の平均は29℃程度で、降雨は珍しく6月から8月にかけて測定可能な降水量は15日程度だけである[113]。しかしながら、低い降水量にもかかわらず夏の月の期間、雷雨は高く集中している[114]。 冬のイスタンブルは地中海盆地周辺の他のほとんどの都市と比べると冷涼で最低気温の平均は4-5℃である[113]。黒海からの湖水効果雪はよくあり、予測するのが難しく霧と共に厄介なものになる可能性があり、都市のインフラを混乱させる[115]。春や秋は穏やかであるが、しばしば雨が降ったり変わり易い北西からの冷たい風や南からの暖かい突風で、同じ日に激しい気温変化を引き起こす[112][116]。 イスタンブルの年間降雨日は平均で115日で、年間降水量は 852ミリメートル (33.5 in) である[113][117]。極値は最高気温の記録は40.5℃、最低気温の記録は-16.1℃をそれぞれ観測している。1日当たりの降水量の記録は 227ミリメートル (8.9 in) で、1日当たりの降雪量の記録は 80センチメートル (31 in) である。

参照元:Wikipedia「イスタンブル
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イスタンブルの地理

イスタンブルはトルコ北西部マルマラ地方に位置し、5,343km2 (2,063 sq mi) の範囲を占めている[注釈 1]。ボスポラス海峡はマルマラ海と黒海を結び市街を歴史や経済の中心であるヨーロッパのトラキア側とアジアのアナトリア側に分けている。さらに市街は金角湾により分けられ、以前のビザンティンやコンスタンティノープルが創建された半島は天然の港に囲まれている。マルマラ海やボスポラス海峡、金角湾の交わる辺りが今日のイスタンブルの中心で数千年の間攻撃から街を守って来ており、まだ街の景観の特徴として良く残されている[66]。 イスタンブルの市章のモデルにもなっているローマの七丘をモデルとしたイスタンブルの七丘(英語版)は歴史的な半島を特徴付け、それぞれの頂上には帝国のモスクがある。これらの丘の最も東のものはサライブルヌの上のトプカプ宮殿の場所である[100]。金角湾の反対側から上がると、別の円錐の丘で近代的なベイオール地区が位置している。地形のためにベイオールの建物はかつて斜面を保った擁壁の助けを借りて建てられ、道は階段の形で配置された[101]。アジア側に位置するユスキュダルでは地形が徐々にボスポラス海峡沿岸の下方に延びるとともに、同じような丘陵地の特性を示すが、シェムシパシャŞemsipaşaやアヤズマAyazmaでは景色がより急峻な岬に似ている。イスタンブルで一番海抜が高いのはチャムジャの丘(英語版)Büyük Çamlıca Tepesiで 288メートル (945 ft) である[101]。 イスタンブルは北アナトリア断層の近くに位置し、アフリカプレートやユーラシアプレートの境界に近い。この断層地帯は北アナトリアからマルマラ海にかけて走り、これは都市の歴史を通していくつかの甚大な震災と関連している。甚大な震災の中には1509年イスタンブル地震(英語版)が含まれこの地震による津波は城壁を超え市街を破壊し、10,000人が犠牲になった。より最近ではイズミット近くを震源とする1999年のイズミット地震で18,000人が犠牲となり、イスタンブル郊外の1,000人も含まれている。イスタンブルの人々はイスタンブルの急速な人口増加に対応するために最近建設された数千の住宅が正しく建設されていない可能性があり、さらに壊滅的な震災が都市で発生することを危惧している[102]。地震学者は2030年までにマグニチュード(モーメントマグニチュード)7.6かより大きな地震がイスタンブルで起こる可能性が60%以上であると言っている。

参照元:Wikipedia「イスタンブル

イスタンブルの歴史 - 20世紀以降から現代

20世紀初め、青年トルコ人革命により廃位されたアブデュルハミト2世や一連の戦争は病んでいる帝国の首都を悩ませた[90]。これらの第一次世界大戦の終わりはイギリスやフランス、イタリアによるコンスタンティノープルの占領(英語版)の結果となった。遂にはオスマン帝国最後の皇帝であったメフメト6世が1922年11月に亡命し、翌年ローザンヌ条約によりコンスタンティノープルの占領は終わり、アンカラのトルコ大国民議会でムスタファ・ケマル・アタテュルクはトルコ共和国の建国を宣言し[91]共和国が認められた[92]。共和国の初期の頃、オスマンの歴史から新しい世俗的な国を遠ざけるためイスタンブルはトルコの首都の選択から外されアンカラが支持された[93]。しかしながら、1940年代後半から1950年代初めにイスタンブルは大きな構造変化を経験し、新しい公共広場や大通り、道路が市内中で建設され、時には歴史的な建築物が犠牲となった[94]。アナトリアの人々が膨張するイスタンブルの郊外に建設された新しい工場の雇用を見付けるため市内に移住したため、1970年代に急増が始まった。都市のこの突然の人口の増大は大規模な住宅開発の需要の要因となり、以前の中心部から離れた村や森はイスタンブルの大都市圏に飲み込まれた。

参照元:Wikipedia「イスタンブル

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